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「雨ニモマケズ」の意味とは?宮沢賢治が詩に込めた思いを解説

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「『雨ニモマケズ』の詩の意味が知りたい!」
「『雨ニモマケズ』が書かれた背景を知りたい!」
「宮沢賢治はこの詩にどんな思いを込めたの?」
このように「雨ニモマケズ」は有名な詩ですが、背景や賢治が込めた意味について、知らないという人も多いでしょう。

本記事では「雨ニモマケズ」がどのような詩なのか、その意味と解釈を解説し、併せて「雨ニモマケズ」以外の作品5選も紹介します。

この記事を読むことで、今まで知らなかった宮沢賢治の素顔や「雨ニモマケズ」が有名になった経緯、この詩に対するさまざまな解釈などを知ることができます。

「雨ニモマケズ」の詩や宮沢賢治について詳しく知りたい人は、ぜひこの記事をチェックしてください。

「雨ニモマケズ」はどのような詩?

「雨ニモマケズ」は宮沢賢治の有名な詩で、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」という冒頭部分を何かの折に口ずさんでしまう人も多いでしょう。なじみ深い作品ですが、この詩が作られた背景や賢治が込めた意味を知る人は意外と少ないのではないでしょうか。

今なお多くの人に研究され、さまざまな解釈やエピソードを持つこの詩を取り上げ、意味を解説していきます。

「雨ニモマケズ」は宮沢賢治の死後発見された詩

宮沢賢治は岩手県の商家の長男に生まれ、教師、科学者、宗教家または農業指導者などの多彩な活動をしながら、詩人、童話作家として執筆活動を続け、37歳の若さで亡くなりました。

賢治は田中智学の影響を受け「芸術を通じて道を説く」という文芸観があったとも言われます。しかし生前は、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」の2冊を自費出版した以外に刊行された著書はありません。

「雨ニモマケズ」は、小さな黒い手帳に書かれていました。賢治が亡くなったおよそ1年後、草野新平や高村光太郎などが出席した追悼の会に、弟の清六が賢治の膨大な原稿が入った遺品の革トランクを持参し、手帳はそのトランクのポケットから発見されたといいます。

「雨ニモマケズ」は漢字とカタカナで記載されている

「雨ニモマケズ」は、漢字とカタカナで書かれているのが印象的です。現在はカタカナよりひらがなが多く使われますが、当時の日本は子どもにとって書きやすいという理由から小学生が最初に習う字はカタカナでした。

カタカナは、教科書や公式な文書でも使われる馴染みのある文字だったことから、「雨ニモマケズ」が漢字とカタカナで書かれていても不思議ではありません。

ただし、妹との永遠の別れを題材にした「永訣の朝」という賢治の代表的な詩は、漢字とローマ字、そしてほとんどがひらがなという構成です。賢治はインテリであったため、表現したいものによって文字の使い分けをしていたとも考えられます。

「雨ニモマケズ」は授業にも取り入れられている

「雨ニモマケズ」は、国語の教科書に全文を詩の教材として、あるいは現在は特に伝記やエッセイの一部の関連テクストとして取り入れられることが多い詩です。学校によっては授業で朗読や暗唱をした人もいるでしょう。

この詩は、短歌や俳句のリズムに親しむ日本人には馴染みやすい7音が基調となり、素朴な言葉と心地よいリズムで構成されています。また、カタカナで記載されているため、見た目にも朴訥(ぼくとつ)とした印象が残る詩です。

「雨ニモマケズ」が有名になった理由

宮沢賢治が亡くなったあとに発見された「雨ニモマケズ」は、第二次世界大戦中に教科書に採用されたと井伏鱒二「黒い雨」や「宮沢賢治研究資料集成」第18巻に記されています。

戦争中は「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などのスローガンが掲げられ、忍耐や自己犠牲を徳とする国民精神総動員がなされました。「雨ニモマケズ」も、民衆の士気を上げる戦意高揚の詩として政治的に利用された可能性があります。

戦後は文科省著作の教科書、昭和22年版に「雨ニモマケズ」が掲載され、GHQの指示で「玄米四合」の部分が「玄米三合」に変更されましたが、昭和24年には「玄米四合」に戻されました。

宮沢賢治の詩は政治的利用に始まり、宗教的人間像が聖人としてフォーカスされ、長く教科書に掲載され有名になりました。現在は純粋に詩の教材や関連テクストとして採用されています。

「雨ニモマケズ」の詩の意味と解釈

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賢治がこの詩を書いたのは1931年の11月3日とされています。この日は、明治天皇の誕生日であり、明治時代に小学生・中学生だった賢治が「雨ニモマケズ」をこの日に記したのは意図するところがあったとするなど、作品にはさまざまな見解があります。

もともと「雨ニモマケズ」という文章は、遺品の手帳の中に記されていたもので、作品として書かれたものではありません。遺作を整理していた高村光太郎と賢治の弟の清六が賢治の一面を表した良い文章だからと作品化することに決めたのです。

この詩に賢治がどのような思いを込めたのか、その意味と解釈を解説していきます。

詩と法華経との繋がり

宮沢賢治は、18歳のとき法華経に感銘を受け、以後熱心な法華経信徒でした。「雨ニモマケズ」は法華経の祈りを描いたものといわれます。

詩は「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」で始まり、最後は手帳の右側に「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」という願望で結び、左側に南無無邊行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如來/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼佛/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩とあります。

このお経のようなものは、簡略化した法華経の十界曼荼羅(じっかいまんだら)で、この部分が作品に含まれるかには賛否あり、書いた本人でないと意味はわかりません。

しかし詩には、人のために労を惜しまず行動し、それを評価されずデクノボー(木偶の坊)と呼ばれても構わないという法華経の教えに繋がる賢治の理想の人物像が描かれています。

「ヒドリ」と「ヒデリ」はどちらが正しい?

この詩の中に「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」という箇所があり、この「ヒドリ」についてはいくつかの説があります。「日照り」を誤って書いたもの、「日雇いかせぎ」を意味するもの、「一人」が訛ったものという解釈です。

もともと、手帳には「ヒドリ」と書いてありますが、弟の清六が高村光太郎らと編集するときに「ヒデリ」と改訂し発表しました。

のちに「ヒドリ」とは岩手県の一部の方言で「日雇いかせぎ」を意味するという説などが出ましたが、弟である清六も「ヒドリ」という言葉の意味を知らず、また他の部分には方言が入っていないため、編集時に前後を考えて「日照り」としたといいます。

現在は、この「ヒドリ」の解釈については「日照り」という意味で落ち着いています。

「玄米四合」の意味

賢治は詩の中で「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と書いていますが、一日に玄米を四合食べるというのは多いと考える人もいるでしょう。なぜ、四合という数字が出てきたのでしょうか。

これには、軍医でもある森鴎外の論文「日本兵食論大意」に起因すると言われます。鴎外の論文は、丈夫な体の日本人が1日に食べる米の平均量が四合だという調査結果を紹介しています。賢治はこれを踏まえ、四合という量を記したのでしょう。

また、白米でなく玄米なのは、母親の実家の勧めで賢治は療養のために玄米を食べていたことに関係します。しかし、病床にあった賢治の体に玄米は合わず、ずっとお腹を壊していました。玄米四合は、これを食べられる丈夫な体を持つことを意味し、賢治の切なる願いを表しています。

病弱だった宮沢賢治が詩に込めた願望

「雨ニモマケズ」は作品ではなく、賢治が亡くなる約2年前の体が弱っている時期に自分自身に向けて書いたものだとされます。文章の中の「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」以降の後半部分は賢治の思いが込められた特に大事な部分です。

賢治の願いは、あちこちに行って法華経の教えを実践するということですが、もともと病弱で無理がたたり、病床にいる自分にはそれが叶いません。「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」という結びの言葉には、賢治の強い祈りの気持ちが込められているのです。

「雨ニモマケズ」のモデルとなった人物

「雨ニモマケズ」には、モデルとなった人物がいると言われます。賢治より18歳年上で内村鑑三という有名なクリスチャンの弟子であった斉藤宗次郎です。

岩手県花巻生まれの彼は教師をしていましたが、内村鑑三の影響を受けて熱心なクリスチャンになります。クリスチャンとなったことで彼の人生は大きく変わり、宗次郎は町の人々から迫害されます。

教師の職を失った宗次郎は新聞配達を始め、子供に会うと飴玉を与え、仕事の合間に病気の人の看病をし、祈りを捧げる日々を送りました。賢治は教師の職にある時に宗次郎と親交を深めたとされます。

年齢や宗教は違っても熱心な信仰心と奉仕の心という共通意識から、賢治は宗次郎に尊敬の念を抱き、2人は気が合ったのでしょう。「雨ニモマケズ」を記した時に宗次郎の姿が頭の片隅になかったとは言い切れません。

「雨ニモマケズ」以外の宮沢賢治作品5選

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宮沢賢治の童話や詩は小学生を始め、教科書に掲載されることが多いため、「雨ニモマケズ」以外の作品にも馴染みがあるでしょう。

世代を超えて長く読み継がれている賢治の作品から、代表的な作品5選を紹介します。

「タイトルだけ知っている」「子どもの頃に読んだ」という本を今の目線で読んでみるのはいかがでしょう。

1:銀河鉄道の夜

貧しく孤独な少年ジョパンニは、お祭りの日にふと気がつくと幼馴染のカンパネルラと共に銀河鉄道に乗っていました。車内ではタイタニック号に関係する人など、さまざまな人々と出会い、旅は続きます。

この作品は「ほんとうのさいわい」をテーマに何度も書き直した未完の名作です。

賢治の科学者らしい視点で星空や鉱物などの描写が美しく描かれ、宇宙飛行士の毛利衛さんは、この本がきっかけで宇宙に興味を持ったといいます。他にも、この作品に影響を受けたアニメ、音楽は多数あります。

2:セロ弾きのゴーシュ

町の楽団でセロ(チェロ)を弾くゴーシュは、楽団の中で一番へたな存在です。楽長は10日後の音楽会でゴーシュが足をひっぱって、楽団の評判を下げないようにと言いました。

その晩から一晩中懸命に練習をする彼の部屋に毎晩動物が訪ねて来ます。ゴーシュは動物たちが疎ましく悪態をつきますが、彼らの訪問には意味がありました。

この作品は賢治が実際にチェロを練習していたために生まれました。睡眠も取らず、10日間一心不乱に練習することで上達したゴーシュは、からだがじょうぶだからこんな無茶な練習ができたといいます。病弱な賢治ならではの言葉です。

「セロ弾きのゴーシュ」は賢治が最後まで推敲を加えた一番完成度の高い作品だといわれています。

3:注文の多い料理店

山にスポーツ狩猟に来た都会の紳士2人は西洋料理のレストラン山猫軒を見つけて中に入ります。このレストランは普通とはマナーが違っていました。

ストーリーに登場する2人の紳士はすべてをお金に換算し、なんでもお金で解決しようとする都会のブルジョワとして描かれています。命を軽んじる殺傷行為や都会のブルジョア文化への批判をモチーフに物語は意外な結末に向かっていきます。

「注文の多い料理店」は、賢治が生前に自費出版した唯一の童話集のタイトルになっている作品です。当時、この童話集はほとんど売れませんでした。

4:風の又三郎

田舎の小学校に都会から転校してきた赤い髪の三郎を子ども達は風の神「又三郎」と呼んで遠巻きにしていました。しかし、三郎は自分が損をしてでも他人に与えるという優しさを持っていて、子ども達は少しずつ三郎の存在を受け入れます。

自然豊かな環境の中で、のびのびと遊ぶ子ども達は命の危険と隣合わせです。時には三郎の不思議な力に助けられ、子ども達もまた三郎を助け仲間意識や分かち合うことを学んでいきます。

三郎と過ごした日々はわずか12日間ですが、異質な存在を受け入れ接する中で子ども達は大きく成長します。方言や東北地方に伝わる民話、オノマトペを用い、昭和の田舎の子ども達の様子を活き活きと描いた作品です。

5:よだかの星

「よだか」という鳥は、見た目が醜いために皆に嫌がられ、いじめられていました。そして、名前に「たか」という文字が入っているために鷹の怒りを買い脅されます。そこでよだかは巣を離れることにし、星を目指して夜空を飛び続けました。

ルッキズム (外見至上主義)や食物連鎖、生きるためには他の命を奪わなければならないことに対しての葛藤などをテーマにした作品です。

「雨ニモマケズ」の意味を知って詩の理解を深めよう

「雨ニモマケズ」は、宮沢賢治が亡くなった後に見つかり、遺作を整理していた高村光太郎と賢治の弟の清六が賢治の一面を表した良い文章だということで作品化を決めました。

宮沢賢治は熱心な法華経信徒で、これが「雨ニモマケズ」の作品の意味に大きく関係します。亡くなる約2年前、賢治の体が弱っている時期に自分自身に向けて、この文章は書かれました。

「雨ニモマケズ」には、丈夫な体を持ち、困っている人のところに行って法華経の教えを実践したいという賢治の強い願いが込められています。

この記事を読むことで「雨ニモマケズ」の書かれた意味を知り、詩への理解が深まるでしょう。これを機に「雨ニモマケズ」の全文を読んでみてはいかがでしょう。

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