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「逆さ磔」とは?意味や読み方・いつから始まりいつまで行われていた

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「時代劇や歴史の特集番組などで逆さ磔という刑罰をたまに見るが、どのくらい苦しい刑罰なの?」
「昔は残虐な刑罰が日本でもよく行われていたらしいが、日本でも逆さ磔などの刑罰が行われていたのだろう?」
歴史関連のテレビ番組を視聴したり、歴史関連の本を読んでいると、上記のような疑問を持つのではないでしょうか。

この記事には逆さ磔とはどのような刑罰なのか、そもそも磔とはどのようなものなのかを解説しています。

この記事を読めば、逆さ磔について理解を深めることができ、歴史などの知識を増やすことが可能になります。

より番組を楽しむために、時代劇などを見る前にこの記事を一度よく読み、歴史の知識を増やしておきましょう。

そもそも「磔」の意味とは

そもそも磔とは昔の刑罰の一つで、罪人を板や柱などに縛りつけて槍などを用いて殺す、公開処刑のことです。

国や地方によっては、受刑者を裸体にしたり、手足を広げるようにして板などに縛り付けることもありました。

また、処刑を終えた受刑者の遺体はすぐに土葬をしたり火葬をしたりせず、暫くの間さらし者にして放置することもよくありました。いずれにしても、非常に屈辱的な刑罰になります。

ギリシア・ローマの磔刑(たっけい)

ギリシアやローマにおいての磔刑とは、奴隷や国家の裏切り者に対して行う、非常に屈辱的な刑罰です。

はじめは奴隷に対して行う刑罰でしたが、次第に下層の人民や属領の人民にも行われるようになりました。

受刑者は裸体にされたうえで顔を布で覆われ、手足を板や柱に釘で打ち込まれて固定されることもあるなど、殺害されるまでに屈辱だけでなく多くの苦痛が与えられました。

十字架に釘で磔にされたキリスト

磔刑で有名なエピソードの一つに、十字架に手足を釘で打ち込まれ、磔にされたキリストのエピソードがあります。

これはキリストがユダヤ教体制を批判したために、ローマ帝国の反逆者として捕らえられたことが原因です。

その後磔刑は、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝が廃止するまで、罪人に対して行われていました。キリストが十字架に磔となって処刑されたことは新約聖書に書かれています。

「逆さ磔」は身体を逆さまにして磔にする処刑

逆さ磔とは罪人の頭を逆にして磔にする刑罰のことで、磔刑よりも更に残酷な刑罰で、日本でも過去に行われていました。

言うまでもなく磔刑に輪をかけて苦痛に満ちており、屈辱的な刑罰でした。磔刑と同じく多くの場合、国家やその領主の裏切り者に対して行われており、当時における極刑です。

現代においても時代劇や特撮映像、漫画などでこの刑罰が言及されたり、描写されることがあります。

「逆さ磔」の読み方は「さかさはりつけ」

逆さ磔の読み方はさかさはりつけとなることが多いですが、さかばっつけやさかばりつけ、さかさばっつけなどと読むこともあります。

多聞院日記では逆さ磔のことをさかばっつけ、太閤記ではさかばりつけと読んでいる記載があります。

浄瑠璃の国性爺後日合戦が作成された辺りの時代から、逆さ磔のことをさかさはりつけと読むようになりました。現代ではさかさはりつけと読むのがより一般的です。

日本で「逆さ磔」はいつ始まった?

日本における逆さ磔は、少なくとも戦国時代、織田信長が健在だったころには行われていました。

武士や武将は勿論ですが、国家や領主の裏切り者であれば、女性まで逆さ磔で処刑されたという記録があります。時代が進むにつれて、キリシタンにも行われています。

裏切りへの抑止力となるために、逆さ磔は公開処刑として行われ、受刑者が苦しみ死んでいく様を大衆に見せつけていました。

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「逆さ磔」を招いたとされる長篠の戦い

逆さ磔で有名なエピソードとして、長篠の戦いで織田・徳川軍への使者となった鳥居強右衛門のエピソードがあげられます。

鳥居強右衛門は、長篠の戦において後に敗れることとなる、武田軍から見れば裏切り者の奥平貞昌の家臣でした。

鳥居強右衛門は織田・徳川軍へ援軍の要請を伝えた後に武田軍に捕らえられ、援軍は来ないという偽の伝令を伝えよという武田軍の脅しに屈しなかったため、逆さ磔にされて殺害されました。

信長が叔母を逆さ磔にしたといわれる岩村城の戦い

長篠の戦の後、今度は織田信長が自らの叔母を逆さ磔にして処刑したのが、岩村城の戦いになります。

織田信長の叔母おつやは岩村城が武田軍配下の秋山虎繁によって包囲された際、秋山虎繁との結婚を条件に武田軍に寝返ります。

その後長篠の戦に勝利して優勢となった織田軍が岩村城へ侵攻し、勝利しました。織田信長は叔母が裏切ったことに激怒し、他の武将と同じように逆さ磔に処しました。

キリシタンへの見せしめの処刑方法となる

江戸時代に入るとキリシタンへの弾圧が強くなり、各地でキリシタン大名や一般のキリシタンが捕らえられ、処刑されました。

逆さ磔は大変な苦痛を伴うため、見せしめとしてキリシタンを逆さ磔で処刑することで、棄教を目的としてこの刑罰が行われるようになりました。

拷問したり、処刑による恐怖で改宗させることにより、仲間のキリシタンの動揺を狙うようになりました。

「逆さ磔」はいつまで行われた?

日本において逆さ磔が公的に禁止されたのは、明治の新時代を迎えてからですが、その明治時代の初期にも逆さ磔は行われていました。

明治時代の初期はペリーの来航などで幕府の統治が揺れていたため、治安や内政に不安を抱えているような状態でした。

逆さ磔が完全に無くなったのは、日本政府が政治基盤を確固たるものにして、新たな刑法が制定されてからになります。

天狗党の残党により行われた逆さ磔

明治時代初期、水戸天狗党の残党による報復で、旧水戸藩士である市川三左衛門が逆さ磔にされました。

水戸藩では天狗党と呼ばれる過激派集団が幕末に誕生したため、水戸藩内で市川三左衛門を中心に、天狗党に対抗する組織として諸生党が結成されました。

その後諸生党によって天狗党に関わった人間が次々と処刑されました。天狗党はその後報復として、市川三左衛門を捕らえ、逆さ磔に処したという記録があります。

磔刑は明治初期まであった

明治時代となり幕府から政府に政治権力が移行した後は以前よりも減ったとはいえ、磔などの残虐な刑はまだ行われていました。

明治元年以降、火あぶりなど多大な苦痛を伴う刑罰は全面的に禁止となり、どんな大罪を犯したとしても執行されなくなりました。

しかし磔に関しては君父を殺すなどの滞在を犯した際に限定されていたとはいえ、新律綱領が制定されるまでは行われていたという記録があります。

出典・参照: 我が国における死刑の歴史について|法務省

逆さ吊りが身体に与える影響

長時間逆さ吊りになったことで死に至ってしまう例は、逆さ磔になった事例以外でも実際に確認されていますが、そのメカニズムについては未だに正確には解明されていません。

長時間逆さまの状態でいると、心臓などの内臓に過度の圧力が加わり呼吸困難になるから、などの説があります。

死ぬまではいかなくとも眼圧に異常をきたし、視力に悪影響を及ぼす可能性もあるため、長時間の逆さ吊りは危険です。

逆さ磔の歴史を覚えておこう

現在は昔と違って刑法などが整備され、受刑者や死刑囚でも人権が守られているため、逆さ磔などの残虐な刑が執行される可能性は極めて低いです。

ただ、逆さ磔などの刑罰が昔は頻繁に行われ、それによって多くの人が多大な苦痛と共に命を落としたという事実は忘れるべきではありません。

時代劇や漫画などでこの刑罰を見た際も、これらの事実を心に留めながら見ると、歴史に対する理解が深まります。

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