大奥のお万の方の一生・美人なのか・子供・お墓・極付け
更新日:2024年07月23日
お万の方は美人だった?
大奥にいた数千の美しい女人に関心を示すことがなかった家光が一目ぼれをし、のちのちまで寵愛していたお万の方も、やはり美しかったと伝えられています。尼姿のお万の方は、美少年のような中性的な雰囲気と顔立ちをしていたのではないかと推測されています。
お万の方を大奥に迎えたのちは、次第に女性に興味を持つようになったと言われている家光ですが、最も大切にされたのがこのお万の方であったことからも、お万の方の魅力がうかがえます。
お万の方には子どもはいた?
お万の方が大奥に輿入れしたとき、家光は37歳くらいだったといわれており、当時で考えるともう若いとはいえませんでしたが、まだ跡継ぎたる男子も産まれてはいませんでした。
懐胎を禁じられていたとする説も
還俗して側室になったお万の方は、家光の厚い寵愛を受けましたが、結局残念ながら子どもには恵まれませんでした。徳川将軍家では天皇家や公家を外戚に持つ将軍が誕生しないよう、大奥が管理していたとされるが、お万の方も例外ではなく、妊娠するたびに堕胎薬を盛られていた、あるいは不妊薬を飲まされていたという俗説があります。
また、公家出身のお万の方が子を産んで正妻である御台所・孝子の家と公家同士で分裂・争うことを避けるためとの説や、宗教的な理由で子をもうけることを禁止されていた、という説もあります。
「老中の内向により懐胎を禁じられていた」とする資料も残っています。しかし、還俗がさほど珍しくなかった時代に、懐胎が禁じられていたという理由についてははっきりとはわかっていません。
お万の方のお墓はどこ?
家光の没後のお万の方については不明な点が多く、あまり詳しい記録などは残っていません。お万の方の墓所は東京都文京区小石川にある無量院に埋葬されましたが、のちに廃寺となり雑司ヶ谷霊園に改葬されたと言われています。しかし、現在では墓碑不明となっています。
「極付け お万の方」は栄光院の歌?
極付け お万の方とは、つボイノリオの楽曲を指します。お万の方と呼ばれた女性は時代をまたいで数名いますので、この曲が指す「お万の方」がのちの永光院であるお万の方かどうかは明記されていません。
お万の方の性格は?
永光院は、家光に付随して、テレビドラマや小説のなどの題材として取り上げられることも多く、それらの影響で才色兼備で性格のよい女性であったというイメージがありますが、実際には家光が寵愛していたことで側室としては格別の扱いを受けており、大上臈と並ぶ立場でした。
また、春日局の死後、家光より大奥の取り締まりを一任され、春日局に代わって大奥を支配し、幕閣からは「第二の春日局」と恐れられたといわれる面もあります。
大奥で対立していた春日局が築き上げた大奥の質実剛健な武家風の奥向きを、お万の方は華美で豪奢な京都の公家風に改めていったというエピソードもあり、ドラマなどでの一般的なイメージのお万の方とはまた違った性格であったと考えられています。
お万の方のその後は
上述のとおり、大奥を巨大な権力で取り仕切っていた家光の乳母・春日局の死後は、家光より「春日局同様に奥向きを取り締まる」ことを命じられ、実質的に春日局の後任として大奥の支配者となりました。
慶安4年4月20日(1651年6月8日)に家光が死去したのちは、他に数名いた側室達とは異なり、落飾せずに「お梅の局」と名を変えて大上臈として再び大奥勤めに就いたと記録に残っています。
しかし、それ以後の経歴はほとんど伝わっておらず、お梅の局という人物も別人だとする説もあります。とはいえ、明暦3年1月18日(1657年3月2日)に起きた明暦の大火で江戸城の本丸が焼け落ちてしまい、家光の御台所の中の丸にいた鷹司孝子と共に小石川の無量院に避難したとされているので、少なくともこの頃までは大奥に籍があったものと考えられています。没年は正徳元年10月11日(1711年11月20日)、88歳でした。
初回公開日:2018年04月19日
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