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徳川の子孫の現在・有名人|金持ち/苗字/学習院/結婚

更新日:2024年07月28日

徳川家康の名前を知らない人の方が少ないくらい有名な武将です。栄耀栄華を誇っていた一族ですから、その後の徳川幕府が終焉したいきさつもあり、徳川の子孫は今どうしているのか気になるところです。徳川一族の子孫の人達は何をしているのでしょうかご紹介したいと思います。

徳川の子孫の現在

徳川家と言えば誰でも知っている家系です、歴女と呼ばれる女性達やインターネットの発達により海外の人にもがあります。関ヶ原にまで外国から見物にやってくる時代です。徳川家康が江戸幕府を開いてから、15代将軍まで280年の間征夷大将軍として日本を統治しました。これだけ有名な徳川家、子孫の人達は現在どこで何をしているのでしょうか。

徳川家は全国の大名とも、婚姻や養子縁組を行っています。婚姻関係が多い事もあり、細かく調べたら子孫の数は多いと言えます。

苗字

徳川家の苗字は宗家と、御三家と言われる尾張徳川家と紀州徳川家そして水戸徳川家。そして、御三卿と言われる清水家、田安家、一橋家が徳川の苗字を使っています。田安家は八代将軍徳川吉宗の次男宗武が、清水家は八代将軍徳川吉宗四男宗尹が一橋家は九代将軍徳川家重の次男家重が開祖となり作られました。

徳川の苗字はもう一家系あり、江戸幕府十五代将軍徳川慶喜の家系で明治政府によって認められています。徳川の分家として、徳川慶喜家とされて八家系で使用されています。

また、徳川家康が徳川と苗字を変える前の松平の名前を持つ一族が姻戚としています。会津松平家は、二代将軍徳川秀忠の息子で三代将軍徳川家光の異母弟保科正之が開祖の家系です。徳川、松平一門会という親族の会に入っている子孫の人数は約600名程です。

会津松平家

会津松平家は激動の時代を生きてきました、幕末以降の会津人の苦難は人々の記憶にと言うよりも遺伝子レベルで刻まれています。苦難の中会津松平家の子孫の人達は、懸命に生きて今に繋いできました。

松平容保公は、尾張徳川家の分家高須家十代藩主松平義建の八男として生まれ会津松平家に
養子として家督を継ぎました。秩父宮妃節子妃殿下は、松平容保公の子孫で孫にあたります。

会津松平家の分家の子孫から、徳川宗家と徳川慶喜家へ、養子縁組され家督を継承しています。会津松平家は、十五代目当主松平親保氏が家督を継いでいます。

桑名松平家

久松(桑名)松平家も、高須家十代藩主松平義建の九男定敬が四代藩主を継承し、激動の幕末を生きぬきました。元々は久松の苗字でしたから、明治以降苗字を久松に戻しました。しかし、久松松平家の分家筋の一部子孫は松平性のままで残った家系もあります。

桑名松平家は、徳川家康の異父兄弟が久松家を継いだことから松平の性になり親戚関係となりました。

学習院

学習院は、元々皇族や華族の子弟のためにある学校です。戦後は、一般の子弟も普通に受験でき学習院へ通う事ができるようになりました。しかし、歴史上の戦いで敵見方に別れて戦った、歴史に名を残す家系の子孫が多く在籍している学習院ならではの苦労もあります。特に歴史の授業、とりわけ日本史は神経を使って授業を行っています。

歴史の授業では江戸時代は一番最後3学期末に行いできるだけあっさりと終わらせています。それぞれ、立場の違いから敵味方となっていますが、見方が違えば歴史の場面も変わってきます。また、歴史はいずれも勝者のものです自分たちの都合の良いように残すのも仕方のないことです。

結婚

徳川家だけではなく長く続く家系では、結婚となると本人に任せる事ができないこともあります。グローバルな時代ですし、国際結婚も特に気にしない時代ですが。徳川家の子孫特に宗家に至っては、外国の女性を迎え入れる事に抵抗が強いと言えます。

徳川宗家18代目徳川恒孝氏の大反対を押し切って、19代目の予定だった一人息子徳川家広氏はベトナムの女性と結婚しました。徳川家広氏は勘当同然と言われていますが、徳川家の子孫として19代目を辞退し宗家は養子を取ると言われています。

徳川と言えば、他の大名や一族のなかでも特別な家系でもあります。結婚と言う私的な事でも、家を背負うことになりますから個人の幸せのみで考える事はできません子孫にとっては大変な事です。

徳川の子孫は金持ちなのか

徳川の埋蔵金が毎年話題になりますが、徳川家の子孫はお金持ちなのでしょうか。徳川宗家は明治政府に江戸城も含めて資産を没収されました。では、徳川家の分家はお金持ちなのでしょうか。徳川家の分家の中でも、尾張徳川家は家康の九男義直、紀州徳川家を十男頼宣、水戸徳川家は頼房が開祖となりつくられ御三家と言われてきました。

御三家は将軍家の補佐と将軍家に跡継ぎがいなくなった時に本家を絶えさせないために作られた家系です。御三家や御三卿も含めて、徳川家の子孫の中でお金持ちはどの家系なのでしょうか。

尾張徳川家

徳川御三家のなかで、筆頭なのに唯一将軍を出さなかった尾張徳川家。徳川美術館を設立し、高級住宅街「徳川ビレッジ」の管理会社の取締役でもある実業家です。徳川ビレッジは家賃100万超えと言います。また、尾張徳川家の子孫22代当主徳川義崇氏はプログラマーのお仕事もしています。

所有している財産も、徳川一族の中でも一番持っていて子孫のなかでも一番のお金持ちが、この尾張徳川家と言われています。明治維新の時、徳川宗家の味方を尾張徳川家がしなかったからあっさり勝敗が決まったと言われています。それだけに、資産も残せたとも言えます。

紀州徳川家

紀州徳川家は、八代将軍と十四代家茂までの将軍を輩出した家系です。紀州徳川家の子孫、17代目が資産を毎月一億二億と使ってしまい、食い潰してしまったと言われています。紀州徳川家が、受け継いだ宝は売られてしまって所有していません。現在19代目は女性当主徳川宜子さんですが、独身なので20代目は養子を取る事になります。

徳川宜子さんは、建築家として活躍なさっています。

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初回公開日:2018年02月01日

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