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大奥のお万の方の一生・美人なのか・子供・お墓・極付け

初回公開日:2018年04月19日

更新日:2018年04月19日

記載されている内容は2018年04月19日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。

また、記事に記載されている情報は自己責任でご活用いただき、本記事の内容に関する事項については、専門家等に相談するようにしてください。

江戸幕府3代将軍、徳川家光の寵愛を最も受けたとされる側室・お万の方、のちの栄光院には、ドラマや小説などの題材になっています。「尼君から還俗して大奥に入った」「美少年的な顔立ちの美人だった」などのエピソードから、お万の方がどんな女性だったのかについて紹介します。

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大奥のお万の方の一生

のちに永光院と呼ばれる通称「お万の方」は、江戸幕府3代征夷大将軍・徳川家光の側室のひとりです。生没年は寛永元年(1624年)~正徳元年10月11日(1711年11月20日)とされる江戸時代を生きた女性です。

数ある家光の側室の中で、もっとも寵愛を受けたのがこのお万の方。美しく人柄もよく、大奥で慕われる存在でした。

永光院・お万の方について

お万の方についての基本的なパーソナルデータです。

本姓:源 / 名:万 / 諱:満子
寛永元年(1624) - 正徳元年10月11日(1711年11月20日)
江戸幕府3代征夷大将軍徳川家光の側室で、公家の六条有純の娘。弟は高家となり、幕府に仕えた戸田右衛門氏豊です。母は旗本 戸田為春の娘で、養父は大垣藩主戸田氏鉄と伝えられています。

お万の方は元、尼さんだった

お万の方は、大奥に輿入れする以前は慶光院というお寺の尼君でした。このお寺は代々の住職を天皇の皇女や皇族の女性が務める、大変格式ある門跡寺院の尼寺でしたが、江戸時代に入り、京都の公卿の姫君がその住職に据えられるようになっていました。

格式の高いお寺としての位置づけは変わらず、慶光院の住職が交代となる際は継目御礼といって着任する住職が江戸までわざわざ下向し、時の将軍と対面するという慣習がありました。家光の御代で継目御礼が執り行われた際、新しく据えられた若い尼君(住職)は慣例に従い将軍との対面のため江戸にやってきました。この尼君がのちのお万の方です。

そこで若く美しい住職を一目見て、家光は大層気に入ってしまい、どうしても大奥に迎えたいと言い出したすえ、無理に還俗させて側室にしてしまいました。このとき、髪が伸びるまでの間、田安屋敷に留められました。

男色の家光が惹かれた、中性的な尼姿の美少女

当時の大奥には、春日局が集めた何千という美しいと評判の女人がおり、家光の目に留まることを待っていました。そのたくさんの女人には見向きもしなかった家光が、わざわざ就任の目通りにやってきた格式高い寺の住職を気に入ってしまうというのは、当時においても大きな騒ぎとなったと記録に残っています。

尼君であったお万の方は当時16歳とすこし。公卿六条有純の息女であり、清らかで美しい少女でした。後述のように男色を好んでいた家光の目には、尼姿をしている美しい少女が中性的で魅力的に映ったのではないでしょうか。

女性に興味がなかった3代将軍 家光

徳川家光(とくがわいえみつ)は、慶長9年(1604年)7月17日、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の次男として生まれました。母は正室のお江(お江与・浅井長政の3女)です。江戸幕府初代将軍・徳川家康の死後、家光の父である秀忠による治世となり、その後秀忠の1623年隠居により将軍職が譲られました。家光、20歳の時のことです。江戸幕府の象徴ともいえる後宮・大奥ができたのも、この家光の時代です。

父・秀忠および生母お江与が家光の弟である次男・国松(のちの徳川忠長)を溺愛したため、乳母である春日局に育てられました。将軍継承の際、家光の家督継承を危惧した春日局が大御所の家康に直訴し、家光の世継決定が確定されました。

日本史学的見解では、江戸幕府が280年余り続いたのも、この家光の功績が大きいと考えられています。お万の方の夫である家光はどのような人物だったのでしょうか。

男狂いを心配した春日局が大奥に嫁候補を集める

幼い頃から母と乳母が長きにわたり激しく争いをしている様子をみてきたためか、家光は女性嫌いとなり、男色にふけるようになりました。特に問題だったのが、正室(御台所)鷹司孝子との間に子どもがいませんでした。

男色の家光を孝子がまた嫌ったためか、ふたりの仲は悪かったようで、孝子との間に子をもうけることは最後までなく、家光には30歳を過ぎても子ができませんでした。

これに危機感を感じた春日局は「大奥」に評判の美女などを集めて、家光の手がつくようにします。一説には男装させて家光に近づけたとも言われており、春日局の作戦がようやく奏功し、家光は女性にも興味を持つようになりました。

側室との間にのちの4代将軍・家綱、甲府藩主にして6代将軍の父となる綱重(つなしげ)、5代将軍・綱吉などの子どもが誕生し、以後、大奥は将軍の世継ぎをもうけるために機能していくことになります。

家康と家光の関係は?

父である2代将軍家定と、家光の生母が家光を疎んじ、弟国松ばかりかわいがるさまを見て、このままでは本当に世継ぎの座から追われてしまうことを懸念し、乳母である春日局は家光を世継ぎに決めるよう、江戸幕府初代将軍の祖父・家康に直訴します。

大御所(おおごしょ)と呼ばれて絶大な権力を誇っていた家康は、ここで世継ぎ問題を一声で解決します。家康は「長幼の序」を明示し、家光を世継ぎとすることを正式に定めました。「長幼の序」というは古代中国から受け継がれてきた儒教の考えのはしらのひとつで、年齢順の秩序を指します。

年上から順番に年下に下りてゆく、という考え方で、これが今後の江戸幕府の考え方の指針になります。また、家光の「家」の文字は初代将軍である祖父家康の一文字をとったものですが、徳川宗家の嫡男にはこの字が使われるようになっていきます。

家康の側室「お万の方」は別の人

なお、徳川家康の側室で、結城秀康の生母であるとされるのちの長勝院も、大奥ではお万の方と呼ばれていました。長勝院以外にも、江戸幕府の将軍や重臣の奥方に、お万の方と呼ばれた人たちは数名いますが、ここで紹介している家光の側室である永光院とは別の人になります。

別の人物が同じ通称で呼ばれていることは、お万の方以外にも例が見られます。ごちゃ混ぜにならないよう注意してください。

5代将軍綱吉の母はお万の方の侍女出身だった?

還俗し、大奥に入るお万の方について小姓として大奥入りした女性に「お玉の方」がいます。京都の八百屋出身の娘で、将軍の生母にまで上り詰めた強運の持ち主で、「玉の輿」という言葉の由来にもなっています。

このお玉の方は奥勤めをするうち家光の目に留まり、のちの5代将軍・綱吉の生母で、桂昌院と名乗る家光の側室となります。お万の方が家光に見初められ、大奥に入ることになったことがきっかけでその後の人生が大きく変わった女性と言えます。

お万の方は美人だった?

大奥にいた数千の美しい女人に関心を示すことがなかった家光が一目ぼれをし、のちのちまで寵愛していたお万の方も、やはり美しかったと伝えられています。尼姿のお万の方は、美少年のような中性的な雰囲気と顔立ちをしていたのではないかと推測されています。

お万の方を大奥に迎えたのちは、次第に女性に興味を持つようになったと言われている家光ですが、最も大切にされたのがこのお万の方であったことからも、お万の方の魅力がうかがえます。

お万の方には子どもはいた?

お万の方が大奥に輿入れしたとき、家光は37歳くらいだったといわれており、当時で考えるともう若いとはいえませんでしたが、まだ跡継ぎたる男子も産まれてはいませんでした。

懐胎を禁じられていたとする説も

還俗して側室になったお万の方は、家光の厚い寵愛を受けましたが、結局残念ながら子どもには恵まれませんでした。徳川将軍家では天皇家や公家を外戚に持つ将軍が誕生しないよう、大奥が管理していたとされるが、お万の方も例外ではなく、妊娠するたびに堕胎薬を盛られていた、あるいは不妊薬を飲まされていたという俗説があります。

また、公家出身のお万の方が子を産んで正妻である御台所・孝子の家と公家同士で分裂・争うことを避けるためとの説や、宗教的な理由で子をもうけることを禁止されていた、という説もあります。

「老中の内向により懐胎を禁じられていた」とする資料も残っています。しかし、還俗がさほど珍しくなかった時代に、懐胎が禁じられていたという理由についてははっきりとはわかっていません。

お万の方のお墓はどこ?

家光の没後のお万の方については不明な点が多く、あまり詳しい記録などは残っていません。お万の方の墓所は東京都文京区小石川にある無量院に埋葬されましたが、のちに廃寺となり雑司ヶ谷霊園に改葬されたと言われています。しかし、現在では墓碑不明となっています。

「極付け お万の方」は栄光院の歌?

極付け お万の方とは、つボイノリオの楽曲を指します。お万の方と呼ばれた女性は時代をまたいで数名いますので、この曲が指す「お万の方」がのちの永光院であるお万の方かどうかは明記されていません。

お万の方の性格は?

永光院は、家光に付随して、テレビドラマや小説のなどの題材として取り上げられることも多く、それらの影響で才色兼備で性格のよい女性であったというイメージがありますが、実際には家光が寵愛していたことで側室としては格別の扱いを受けており、大上臈と並ぶ立場でした。

また、春日局の死後、家光より大奥の取り締まりを一任され、春日局に代わって大奥を支配し、幕閣からは「第二の春日局」と恐れられたといわれる面もあります。

大奥で対立していた春日局が築き上げた大奥の質実剛健な武家風の奥向きを、お万の方は華美で豪奢な京都の公家風に改めていったというエピソードもあり、ドラマなどでの一般的なイメージのお万の方とはまた違った性格であったと考えられています。

お万の方のその後は

上述のとおり、大奥を巨大な権力で取り仕切っていた家光の乳母・春日局の死後は、家光より「春日局同様に奥向きを取り締まる」ことを命じられ、実質的に春日局の後任として大奥の支配者となりました。

慶安4年4月20日(1651年6月8日)に家光が死去したのちは、他に数名いた側室達とは異なり、落飾せずに「お梅の局」と名を変えて大上臈として再び大奥勤めに就いたと記録に残っています。

しかし、それ以後の経歴はほとんど伝わっておらず、お梅の局という人物も別人だとする説もあります。とはいえ、明暦3年1月18日(1657年3月2日)に起きた明暦の大火で江戸城の本丸が焼け落ちてしまい、家光の御台所の中の丸にいた鷹司孝子と共に小石川の無量院に避難したとされているので、少なくともこの頃までは大奥に籍があったものと考えられています。没年は正徳元年10月11日(1711年11月20日)、88歳でした。

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