一休さんにまつわるとんち話の紹介|屏風のとら/水あめ
更新日:2024年08月01日
とんちの多い一休さんの紹介
とんちの多い一休さんの物語は「屏風のとら」「この橋わたるべからず」「みずあめ」「たけのこのおとむらい」など、私たちの誰もが一度は読んだり話を聞いたりした経験があるでしょう。
とんちの多い一休さんの謎
童話本や絵本で一度は読んだりした一休さんのとんちの物語ですが、意外と知らないのが一休さん本人のことです。いつの時代に生まれ、そしてどのように育ったのかなど、一休さんのとんち物語のファンとして興味が尽きません。
一休さんは本当にいたの?
とんち話で有名な一休さん(1394-1481)は、室町時代の「臨済宗」の京都出身の禅僧でした。「一休」という名前は通称名で、名は宗純(そうじゅん)と言い、後小松天皇の子とされています。
一休さんの幼少期
5歳のとき京都・安国寺(応仁の乱で焼失、現在の京都市中京区・壬生寺の近く)の寺童(お寺の高僧のそば近くに仕える童)となりました。小さいときから利発で頭のよく回るとんちの名人だと言われていました。
修行時代の一休さん
大人になってから、近江堅田(現在の滋賀県・堅田)の「祥瑞寺」で臨済宗大徳寺派の禅を受け継ぐ華叟宗曇(けそんそうどん)の弟子となって修行に励み、師から「一休」という道号(僧侶の号)を受けたと言われています。
諸国遊行の一休さん
師・華叟が亡くなった後、一休さんは諸国を行脚(あんぎゃ)して回り、その行脚のなかで身分の高い人や低い人の別なく、そして武士や庶民を区別することなく多くの人々に禅の教えを説いて廻りました。
大徳寺住持(住職)となった一休さん
80歳(1474年)のとき勅令を受けて京都・大徳寺住持(住職)となり、応仁の乱で荒廃した大徳寺の再興に尽くしました。
86歳のとき、禅寺の中心的建物である「法堂(はっとう=禅寺で住持が修行僧に教えを説き、指導に当たる建物)が完成し、二年後の88歳のときに亡くなりました。
一休さんとはどんな人?
一休さんの人生の大半は、「遊行(ゆぎょう=僧が修行や教化のため諸国を行脚すること)」の日々であり、その「巡錫(じゅんしゃく=僧が各地を巡り歩くこと)」の軌跡も定かでないため、一休さんの実人生についてはっきりしないことが多いのも事実です。
ただ、禅僧でありながら酒を飲み、女性ともつきあうなど形骸化した慣習や規律に逆らい自由奔放に生きたことは間違いなく、その反骨精神が庶民から喝采され、とんちの「一休さん」という形で伝説化されていったのかも知れません。
一休さんにまつわるとんち話の紹介
一休さんのとんち話には、「屏風のとら」「この橋わたるべからず」「みずあめ」「たけのこのおとむらい」などたくさんありますが、これらの多くは江戸時代(1668年)に仮名草子(仮名または仮名交じり文)の笑話本として江戸庶民の間に広く読まれた「一休咄」の中で、一休さんの幼少のころのとんち話として取りあげられています。
この「一休咄」の中の一休さんのとんち話では、一休さんが物語に出てくる相手とする問答でとんちを効かし相手にぐうの音も言わせない様子が江戸庶民の間でを博し、一休さんのを絶大なものとしました。
時代を経て現代でも、一休さんのは衰えず子供向けの童話や絵本としても出版され、テレビでも一休さんのとんち話がアニメーションの番組として長く放送されています。
初回公開日:2018年02月14日
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