カトリックとプロテスタントの割合|キリスト教が分裂した歴史を解説
更新日:2024年08月25日
キリスト教には大きく分けるとカトリックとプロテスタントがあり、それぞれでローマ教皇の扱いが異なるということは先程少しだけ触れました。
両者とも、神という存在をまず第一に置くという点は共通しています。つまり第一の権威は神ということです。しかし、第二の権威として掲げるものが異なり、カトリックでは教会の存在、プロテスタントでは聖書としています。
両者をもっとも簡単に判別する方法としては、聖職者をどう呼ぶかということがあります。カトリックにおいては聖職者は「神父」または「司祭」と呼びますが、プロテスタントでは「牧師」と呼ぶのです。
他にもいくつか違いはあるので、代表的なものを2点ほど解説していきます。
お祈りの仕方
カトリックとプロテスタントの異なる点として、1つはお祈りの仕方があります。
カトリックにおいては、お祈りの際に胸の前で十字を切る仕草をします。しかし、プロテスタントではこれは行いません。
十字架そのものにも違いはあります。カトリック信者の十字架にはキリストの像が付いていますが、プロテスタント信者の十字架には付いていません。これは、両者が偶像崇拝をするかしないかの違いによるものです。
カトリックの神父や司祭は男性しか就くことができず、生涯独身であることが良いとされています。対して、プロテスタントの牧師は男女関係なく就くことができ、結婚も自由にできます。
礼拝の儀式のやり方
カトリックとプロテスタントでは礼拝の儀式にも大きな違いがあります。
カトリックで行われる礼拝は「ミサ」と呼ばれます。特に決まった曜日ではなく、平日祝日関係なく行われます。
主に行うのは聖体拝領というもので、キリストの体になったとされるパンと葡萄酒をいただくという行いです。この儀式を行い、キリストや教会の一体になるという意味を持っています。
一方でプロテスタントでは、毎週日曜日に礼拝を行います。プロテスタントでは聖書を信仰の対象としているため、主に行われるのは牧師による聖書朗読の説教会とされています。
キリスト教がカトリックとプロテスタントに分裂した歴史
よく日本人がキリスト教に対して浮かべる疑問の1つに「なぜ同じキリスト教同士で対立しているのか」というものがあります。
おおまかに説明すると、両者が対立するのは「宗教とは社会そのものである」ためです。中世のキリスト教信者にとって、信仰とは「生きること全て」であり、生活のあらゆる慣習、価値観、暦にいたるまで全て宗教によって決まっていました。そのため、違う教派同士で「常識」が異なるため、対立してしまっているわけです。
事の始まりは16世紀頃ドイツで起こった「宗教改革」と言われています。ここでは、さらに詳しく、カトリックとプロテスタントがどのように分裂していったのかを解説していきます。
宗教改革が起きた原因
宗教改革とは、16世紀頃より起こったキリスト教会改革運動のことを指します。
当時の教皇であるレオ10世が「贖宥状(しゅくゆうじょう)」という書状を販売しました。贖宥状とは、つまりは免罪符のことであり、これを購入したものは現世での罪を全て赦され、死後も煉獄に行くことはないといったことが書かれていました。
この贖宥状の販売に対し、ドイツの神学者であるマルティン・ルターが激しく批判します。そしてルターは「95箇条の論題」を発表します。これは「人々が救われるのは日頃の行いによるものではなく、神を信じているかどうかである」という事をラテン語で論じた文書であり、非常に難解なものでした。
しかし、教会へ不満を抱いていた当時の民衆は「ルターという学者が贖宥状を売って金儲けしている教会を批判している」という点だけで彼の熱狂的な支持者となり、規模を大きくしていった結果、宗教改革へと発展していくことになるのです。
宗教改革の開始
ルターの思想が広まると、各地で宗教改革運動が始まることとなり、民衆が教会に多数おしかけて、聖像や祭壇などを打ち壊すという行動をとるようになります。
この破壊活動に参加した人の中には、いわゆる富裕層と呼ばれる者が多数いたため、こうした存在がさらに民衆を指導していき、その活動はますます拡大化していくことになります。やがて、宗教改革派は「抗議する者」という意味からプロテスタントと呼ばれるようになるのです。
ルターが亡くなった後、プロテスタント派の勢いは弱まりますが、それでもカトリック派は彼らを完全に屈服させることはできなかったため、「アウクスブルク宗教和議」を公布します。これにより、「1人の支配者、1つの宗教」という原則が成立し、諸侯は自分の臣下や領民に対して、自分の宗派を強制させることができるようになります。
領主と異なる宗派の者は街を去らなければならなくなり、ここからカトリック・プロテスタントの対立はさらに深まっていきました。
1618年に始まった30年戦争
1618年、ベーメン国王のフェルディナンドが、自国民にカトリックへの改宗を強要したことが原因で、プロテスタントたちの反乱が起こります。
フェルディナンドは神聖ローマ帝国を建国し、その皇帝となります。そして1623年に、プロテスタント派の反乱側は鎮圧されてしまうことになります。
しかし、プロテスタント派を救うという名目でデンマークがこの反乱に参加します。続いてスウェーデンやフランスまでもが参戦し、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦乱へと発展してしまうのです。
戦いは30年続き、1648年にウェストファリア条約が結ばれたことでようやく終結します。神聖ローマ帝国は滅び、フランスとスウェーデンは領土を拡大し、オランダとスイスは独立を果たしたのです。
カトリックやプロテスタントと違うキリスト教の宗派である正教会とは?
キリスト教は大きく分けるとカトリックとプロテスタントですが、実はもう1つ違う教派として、正教会というものがあります。
正教会はギリシャや東洋の要素を取り入れた教派であり、11世紀頃に成り立ちました。ローマ帝国の東西分裂に伴って、東方教会と西方教会にわかれ、東方教会が正教会となったとされています。西方教会が後のローマ・カトリックです。
正教会はロシアやルーマニア、そして日本にも広く分布しています。主にトルコとロシアそれぞれの総主教座がまとめ役となり、問題が起こらないよう管理しています。
カトリックやプロテスタントの割合やキリスト教が分裂した歴史を知っておこう
初回公開日:2022年11月01日
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