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徒然草の「徒然なるままに」の意味と使い方・読み方・漢字の意味

更新日:2024年01月12日

「徒然草」は、吉田兼好による、序段を含め全244段からなる有名な随筆です。「徒然なるままに」から始まり、兼好の思想や、物語的な小文、備忘録的な雑記など多岐に渡り書かれています。その中でも、序段に書かれた最も有名な「徒然なるままに」とはどういう意味なのでしょう?

徒然草とは

皆さんきっと学生時代にきっと習ったでしょう。「徒然なるままに」との冒頭を聞いたことがある人も多い徒然草。そんな徒然草も曖昧にしかわからない人が多いのではないでしょうか。そんな徒然草を少し掘り下げて意味も詳しくご紹介していきます。

徒然草とは、吉田兼好が書いたとされる随筆であり、清少納言の「枕草子」・鴨長明の「方丈記」と合わせて日本の三代随筆の一つと評価されている作品の一つです。

徒然草の詳細

「徒然草」は鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとする説がありますが、数多くの説があり定説はありません。そして、吉田兼好が書いたという確かな証拠は何一つありません。

序段を含めて244段にもなる「徒然草」。文体は、和漢混淆文という現在の日本語の表記体系の元となる文体と、仮名文字が中心の和文が混在しています。序段には「徒然なるままに」と書いたと述べ、その後の各段では吉田兼好の思索や雑感、逸話を長短さまざまに、順不同に語っており隠者学に位置付けられています。

吉田兼好が歌人、古典学者、能書家などであったことを反映して内容は多岐に渡っています。また、吉田兼好が仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えたために、仁和寺に関する逸話が多いです。

吉田兼好が亡くなった後

室町幕府の九州探題である、今川貞世(了俊)は吉田兼好の弟子の命松丸とも親交があり、吉田兼好が亡くなった後、編集に関わったとされています。

しかし、執筆後約100年間はなかなか注目されることがなく、同時代の史料に「徒然草」への言及は伝わらなかったが、室町時代中期に僧・正徹が注歌師たちに波及したため、応仁の乱の時代を生きた人たちには「無常観の文学」という観点から「徒然草」に共感を寄せていました。

「徒然草」に記された教訓は町人などにも親しみやすく、身近な古典として愛読されるようになり、江戸時代の文化には多大な影響を及ぼすことになります。

こうしたことから「徒然草」は古典と認識されるようになり、文学上の位置が確定されます。それだけ、写本は江戸時代のものが多く室町時代のものはかなり少ないです。

その後

最も古い写本として「つれづれ草常縁本」と通称されるものがあります。これは、署名はないものの足利時代の歌人である東常縁の自筆と鑑定をされています。

絵画化もかなり遅かったために、現今では寛永7年(1630年)刊の絵入版本が最古とされています。

そして、徒然草が伝える説話の中には、時代の事件や人物について知る史料となる記述が散見され、歴史史料としても利用されています。中でも平家物語の作者に関する記述は現存する最古のものとされています。

徒然草の序段

「徒然草」の序段は「つれづれなるまゝに、ひぐらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」という冒頭からお話が始まります。

その一文の、「つれづれなるまゝに」を現代文に直した「徒然なるままに」は読めるけど、意味までは難しくわからない人が多いのではないでしょうか。「徒然なるままに」と一緒に序段の意味もご紹介していきます。

徒然草の冒頭

「つれづれなるままに、
 ひぐらし硯にむかひて、
 心にうつりゆく
 よしなしごとを
 そこはかとなく書きつくれば、
 あやしうこそものぐるほしけれ。」

徒然草はこう言った冒頭から始まります。

徒然草の「徒然なるままに」の古文の意味

「徒然なるままに」の冒頭から現代語訳に直しますと、

「やることもなく手持ち無沙汰に、
 一日中硯に向かって、
 心に浮かんでは消える
 とりとめもないことを
 これといったつもりもなく
 書いていると、
 何ともおかしくなってしまう」という意味になります。

そう言ったことから「徒然なるままに」は、「手持ち無沙汰で退屈であるのに任せて」と言った意味になります。

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初回公開日:2018年03月08日

記載されている内容は2018年03月08日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。
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