「雨ニモマケズ」の意味とは?宮沢賢治が詩に込めた思いを解説
更新日:2024年10月09日
「『雨ニモマケズ』の詩の意味が知りたい!」
「『雨ニモマケズ』が書かれた背景を知りたい!」
「宮沢賢治はこの詩にどんな思いを込めたの?」
このように「雨ニモマケズ」は有名な詩ですが、背景や賢治が込めた意味について、知らないという人も多いでしょう。
本記事では「雨ニモマケズ」がどのような詩なのか、その意味と解釈を解説し、併せて「雨ニモマケズ」以外の作品5選も紹介します。
この記事を読むことで、今まで知らなかった宮沢賢治の素顔や「雨ニモマケズ」が有名になった経緯、この詩に対するさまざまな解釈などを知ることができます。
「雨ニモマケズ」の詩や宮沢賢治について詳しく知りたい人は、ぜひこの記事をチェックしてください。
「雨ニモマケズ」はどのような詩?
「雨ニモマケズ」は宮沢賢治の有名な詩で、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」という冒頭部分を何かの折に口ずさんでしまう人も多いでしょう。なじみ深い作品ですが、この詩が作られた背景や賢治が込めた意味を知る人は意外と少ないのではないでしょうか。
今なお多くの人に研究され、さまざまな解釈やエピソードを持つこの詩を取り上げ、意味を解説していきます。
「雨ニモマケズ」は宮沢賢治の死後発見された詩
宮沢賢治は岩手県の商家の長男に生まれ、教師、科学者、宗教家または農業指導者などの多彩な活動をしながら、詩人、童話作家として執筆活動を続け、37歳の若さで亡くなりました。
賢治は田中智学の影響を受け「芸術を通じて道を説く」という文芸観があったとも言われます。しかし生前は、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」の2冊を自費出版した以外に刊行された著書はありません。
「雨ニモマケズ」は、小さな黒い手帳に書かれていました。賢治が亡くなったおよそ1年後、草野新平や高村光太郎などが出席した追悼の会に、弟の清六が賢治の膨大な原稿が入った遺品の革トランクを持参し、手帳はそのトランクのポケットから発見されたといいます。
「雨ニモマケズ」は漢字とカタカナで記載されている
「雨ニモマケズ」は、漢字とカタカナで書かれているのが印象的です。現在はカタカナよりひらがなが多く使われますが、当時の日本は子どもにとって書きやすいという理由から小学生が最初に習う字はカタカナでした。
カタカナは、教科書や公式な文書でも使われる馴染みのある文字だったことから、「雨ニモマケズ」が漢字とカタカナで書かれていても不思議ではありません。
ただし、妹との永遠の別れを題材にした「永訣の朝」という賢治の代表的な詩は、漢字とローマ字、そしてほとんどがひらがなという構成です。賢治はインテリであったため、表現したいものによって文字の使い分けをしていたとも考えられます。
「雨ニモマケズ」は授業にも取り入れられている
「雨ニモマケズ」は、国語の教科書に全文を詩の教材として、あるいは現在は特に伝記やエッセイの一部の関連テクストとして取り入れられることが多い詩です。学校によっては授業で朗読や暗唱をした人もいるでしょう。
この詩は、短歌や俳句のリズムに親しむ日本人には馴染みやすい7音が基調となり、素朴な言葉と心地よいリズムで構成されています。また、カタカナで記載されているため、見た目にも朴訥(ぼくとつ)とした印象が残る詩です。
「雨ニモマケズ」が有名になった理由
宮沢賢治が亡くなったあとに発見された「雨ニモマケズ」は、第二次世界大戦中に教科書に採用されたと井伏鱒二「黒い雨」や「宮沢賢治研究資料集成」第18巻に記されています。
戦争中は「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などのスローガンが掲げられ、忍耐や自己犠牲を徳とする国民精神総動員がなされました。「雨ニモマケズ」も、民衆の士気を上げる戦意高揚の詩として政治的に利用された可能性があります。
戦後は文科省著作の教科書、昭和22年版に「雨ニモマケズ」が掲載され、GHQの指示で「玄米四合」の部分が「玄米三合」に変更されましたが、昭和24年には「玄米四合」に戻されました。
宮沢賢治の詩は政治的利用に始まり、宗教的人間像が聖人としてフォーカスされ、長く教科書に掲載され有名になりました。現在は純粋に詩の教材や関連テクストとして採用されています。
「雨ニモマケズ」の詩の意味と解釈
初回公開日:2022年07月22日
記載されている内容は2022年07月22日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。
また、記事に記載されている情報は自己責任でご活用いただき、本記事の内容に関する事項については、専門家等に相談するようにしてください。