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中国の官僚登用試験「科挙」の難易度・難易度が高い理由

更新日:2024年07月14日

はるか昔に行われていた科挙。その難易度はどれくらいのものだったのでしょうか。今回は科挙試験の難易度をさまざまな角度からみていき、その難しさを分かりやすく解説してみました。興味のある方は是非ともご一読ください。きっとその難易度に驚くことでしょう。

先に述べた県試に合格したら、次は府試になります。府も中国全国にある行政区画の一つです。試験期間は県試と比べて3回にわたり計3日間と短めでした。府ごとに1000人程度の受験者で、合格者は50名程度でした。難易度としては倍率20倍。やはり厳しい難易度です。

院試

難易度20倍の難関をくぐり抜けてきた猛者たちは、童試の最終試験となる院試を受けることになります。院試は皇帝から派遣された学政が主催して行います。この試験を合格して初めて科挙を受ける資格である国立学校の生徒(生員)になれます。周りからも「秀才」という呼称で呼ばれていました。ただ、相変わらず難易度は高く、各府ごとに1000名の受験者で、合格者は25名程でした。倍率40倍という難易度です。

科試

さて、晴れて国立学校の生徒(生員)となり、科挙を受験する資格を得た人の前にもう一つの難関が立ちふさがります。それが科挙の本試験第一段階(郷試)の予備試験である科試です。これに合格すると郷試の受験資格である「挙子」を得ることができます。100000人の受験者に対して合格者は1000名で、約100倍の倍率です。これは全ての生員が受験者となり、各府・各学校にて受験が行われました。

郷試

ここまできて、やっと科挙の本試験が登場します。それが郷試です。3年に1度実施される試験で、各地の貢院で行われていました。貢院とは科挙試験専用の施設で、各省ごとに常設されていました。よく映画などで出てくる、人ひとりやっと入れる部屋に詰め込まれ、3日間通しで試験を行います。制限時間はありません。

カンニングを防止するために、書籍やメモの持ち込みは持ち物チェックで禁止されます。水や食料の持ち込みは許可されていました。この科挙本試験は一度始まると、部屋からでることは許されず、急病などで死亡する場合もある過酷な試験でした。しかし合格すると「挙人」の称号を得ることができ、次の科挙本試験である会試の受験資格を得ることができました。難易度は65000人~140000人が受けて、1400人程度でした。

会試

会試は郷試を合格した者が受験できる試験で、実質科挙の最終試験と言っていい試験です。郷試と並んで科挙の中核を成す試験でした。2泊3日で試験が行われ、受験合格者は「貢士」と呼ばれました。この次に実施される試験「殿試」は清代では原則全員が合格するため、この試験に合格した時点で「進士」と呼ばれる場合もありました。しかし、ここも難関で場合によっては、難易度が100倍(受験者10000~20000人で合格者200人~400人)にもなりました。

殿試

殿試は会試で合格して貢士となったものが受けることができる試験で、科挙最後の試験です。形式上は皇帝が自ら立ち合い、試問することになっています。清代では原則全員合格なのですが、この試験の順位により、後々の待遇が全く変わってくるものでした。

そのため、受験者はできるだけ上位で合格しようと必死になります。上位3名は順番に「状元」、「榜眼」、「探花」と呼ばれました。3名の中に入るには相当な努力が必要でした。受験者が200人~300人であったことを考えると、上位3名に入ろうとすれば、難易度は100倍近くになりました。

時代別の科挙の難易度

さて、ここまでは主に科挙隆盛の時代である清代の試験についてお話してきました。しかし、先にもお話したとおり、科挙試験は隋の時代から行われており、試験内容は違いますが、科挙として継続的に行われてきました。内容も違うので難易度もまた変わってくるのが当然です。それでは各時代の難易度はどれくらいだったのでしょうか。科挙が本格的に行われていた王朝をとりあげながら、簡単に紹介していきます。

唐代の科挙

唐代では科挙にそれぞれ科目別に分けられており、明経科・明法科・明算科・明書科・進士科の科目がありました。中でも進科が重視されていました。難易度は受験者1000人に対して合格者が10人程度、合格率1%程度でした。また、当時の試験は郷試と省試の2段階で行われていました。

宋代の科挙

宋代になると科挙の科目が進士科一つに絞られます。そして、この宋代において、科挙の最終試験は殿試によるものと定められます。またこれまでは出世ルートの一つとされていた科挙でしたが、高い地位に就くためには、科挙を受けるしか方法がなくなります。

これで、受験者数が飛躍的に増え、難易度が一気に高くなりました。南宋時代になると受験者数は400000人にもなりました。詳しい数字が出ていないので、明確には断言できませんが、科挙の難易度は宋、特に南宋の時代に上がっていったと考えてよいでしょう。

元代の科挙

元代では科挙が一時期廃止され、1313年に復活しました。元では蒙古人・色目人・漢人・南人と各人種・民族で区分けしていたので、科挙もそれぞれの人種・民族で分けられていました。しかも定員が一回あたり100人と制限があったので、元代をとおして科挙に合格した人は1000人程度と言われています。

次のページ:科挙と現存の試験・資格との難易度比較

初回公開日:2018年03月20日

記載されている内容は2018年03月20日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。
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